朝、シャナはカーテンから射し込む日の光の下、未だに夢の中にいた。
アンティーク調の足の高い天蓋付きのベッド、ふわりとした純白の布団、頭を埋める大きな枕、フリルを多くあしらったパジャマ、そして癖の無い絹の様な黒髪が花の様に広がって、それはまるで物語のお姫様が寝るように。
でも、ここはただの一軒家で、ただの部屋の一つ。そして今ここに眠るシャナは本来の持ち主ではなかった。
不意に部屋のドアが音も無く開き、小柄な少女――本来の部屋の持ち主であるティリエルが足音を忍ばせて部屋に入ってきた。未だに寝息を立てているシャナを一目見て、呆れたとばかりにため息を吐いた。
「……まったくこれが音に聞こえた討滅の道具? それとも何時決別するか分からない相手の家でぐーすか寝ていられる器を褒めればいいのかしら? ねぇ、紅世の魔神様?」
「…………」
シャナの枕元に置かれたペンダント――アラストールへと向けた皮肉の言葉だったが、もとより期待なんてしていないアラストールの返答を待つ事も無く、ティリエルは部屋を横切ってシャナの枕元に立った。
安らいだ表情で未だ眠りの中にいるシャナ、そんなシャナを見てティリエルは薄く笑みを浮かべた、楽しそうな嗜虐的な笑みを。
何を――そうアラストールが声を発しようとするより早く、ティリエルは安眠をむさぼるシャナに向けて極少量の殺気という名の敵意を向ける。
「――ッ!」
刹那――シャナは掛け布団を跳ね飛ばし、転がりながらフローリングの床に降り立つと、殺気の放たれた方向、ティリエルの方へと無意識に身構える。
身構えたその姿に隙はなく、流石名の知れたフレイムヘイズ。ただ、ティリエルの存在に気づかずに安眠をむさぼっていなければ、だ。
「え、あ、何?」
未だに状況が理解できずに目を白黒とさせているシャナに、ティリエルは疲れたとばかりにため息を付いて肩をおろした。
「……ようやくお目覚め? 討滅の道具」
「っ! お前!」
はっと気が付いたシャナの目の前には、くるくると波打つ金の毛先をいじくるティリエル。
「あら、何時までもぐーすか寝ていたご立派な討滅の道具様を起こして差し上げたのに、その態度は何かしら?」
語尾に音符が付きそうなぐらい軽快に言葉を綴り、最後には軽く口に手を添えて肩を震わせた。
「――――ッ!」
隠しているにはあからさまで、それはシャナの目の前にいるティリエルの笑い声な訳で、嘲笑の色が含まれている事も正しく理解できて、シャナの髪がぞわっと膨らんだ。正しく怒髪天を衝くが如く。
「…………」
これから目の前で展開される様子が手に取るように分かり、紅世の魔神たるアラストールは深く深くため息をつくしかなかった。
「ふふ、それだけ吼えられればもう目覚めたみたいね? それでお母様が私に買ってくださったベッドの寝心地はいかかでしたか? そういえば私が入ってきた事にも気づかずに高いびきを掻いていらしたんだもの、聞くまでもないですわね」
慌てず急がずゆっくりと耳から手をどかして、シャナの遠吠えを遮断するために張った山吹色の封絶を悠々と解除するティリエル。
「おまえ!」
「あら、何処かのお間抜けな道具様のフォローをしてさしあげたのになんて言い草かしら。いえ、過ちを繰り返そうというのですから正真正銘のお馬鹿さんね」
「ッ!」
「抑えよ」
「……だってアラストール」
シャナは思わず地団太を踏もうとしたけど、それこそ目の前の徒の思う壺だと理性を総動員してそれを堪える。無論そんな様もティリエルの思う壺でしかなかったが
「――それで、何時まで私のパジャマを着ているのかしら?」
今まで笑っていたのが嘘の様に、不意にティリエルは感情を消して目の前のシャナへと向けて吐き捨てた。
「――ッ!」
シャナは言葉で返す事無く、今まで着ていたパジャマを乱雑に脱ぎ捨て、御崎高校の制服を完璧に身に着ける、プリーツスカートは折り目正しく、タイが曲がらないように。そしてどうだとばかりにティリエルの前で軽く胸を張る。
無論、悠二と千草、それに今はいないゆかりとソラト以外、等しく無価値であるティリエルにとってシャナのそんな仕草はまったく無意味であったが。
「ほら着替えてやっ――」
「では、お帰りはあちら」
ティリエルはシャナが乱暴に脱ぎ捨てた自分のパジャマを丁寧に畳み、ある方向を指差した。
そこはよく晴れた青空、窓の外だった。
シャナの顔がさらに引きつり、アラストールの深い深いため息だけがこの部屋に流れていった。
「まったく何なのあの徒!」
「気にするな」
窓をぶち破る勢いで部屋から飛び出したシャナは、悠二の家を視界に捉えながらも未だに怒りで顔を赤くさせていた。
「だって……」
アラストールに問いかけて、帰ってきたのはしかたないといった雰囲気の深い深い溜息だけ。
「…………」
シャナは不貞腐れて夜笠に手を突っ込んで乱暴に食料袋を取り出した。こんな苛立ちは、かりかりもふもふのメロンパンを食べればきっと吹き飛ぶと思って。
封を開けて、一口齧る。
出来てから時間が立った所為かあんまりかりかりじゃなかった、でも中身はもふもふで、舌に乗る砂糖の甘さに頬が緩む。
シャナはさらに一口二口とメロンパンへ齧り付くが、ふとそれを止める。
自分が一人でメロンパンを食べている間、ティリエルと名乗るあの徒は、同じように朝食を食べているはず。お母様と呼ぶ人間とお兄様と呼ぶトーチ――ミステスと一緒に。
「…………」
心の中に浮かび上がった良く分からない感情。
自分はフレイムヘイズ、あの徒が言った通りただただ徒を屠る討滅の道具。そう討滅の道具なんだ、だからこんな訳の分からない感情なんていらない。
「そう、いらない……」
アラストールと契約したフレイムヘイズ、ただそれだけなんだから。
手を止めていたメロンパンに再び齧り付く。
かりかりじゃなくても中身はもふもふ砂糖は甘く、でも、今はあまり美味しくなかった。
「…………」
それはきっと焼き立てじゃないからだと自分に言い聞かせ、残りを流し込む様に食べる。シャナは空になったメロンパンの袋をつぶして乱雑に制服のポケットに突っ込んだ。
慌てて食べた所為か乾いたパンの生地が喉に絡んで、それをどうにかしたくて何か飲み物と食料袋を漁る。でもそこにあるのはお菓子と甘いパンだけ。
「……飲み物が欲しい」
不意に口に出して思い出したのは、昨日雨が降ってきて碌に飲むことが出来なかったコーヒー。あのミステスが淹れてきたコーヒー。
ふとシャナは空を見上げた。
一口目の砂糖が足りなかった苦い味だけはよく思い出せるのに、砂糖を加えたコーヒーの味は、どうしてか思い出せなかった。
家から出てくるだろうミステスの少年、確か名前は坂井悠二。
自分に噛み付き、徒なんかと兄妹ごっこをするイヤなやつ。
「――そう、ヤなやつ」
「……あのミステスの事か?」
「…………うん」
小さく頷く。
「あ……」
「どうした?」
「う、ううん、なんでもない」
シャナはふと気づいた。自分とアラストールの間にはいつも沈黙があったのに、今では普通に言葉を交わしている。でもそれは決して嫌な事じゃない。
「ねぇ、アラストール。私は変わった?」
ぐるぐるとシャナの胸の内で渦巻く感情、今まではこんな事は無かった。その原因はシャナにもなんとなく分かっている。
あれはおまえが久しくまともに接した人間――それはアラストールが以前シャナに向けて言った言葉。
「変わった、というよりも揺れている、と言った方がいいかもしれぬな。現状ではアレとの関係を絶つ事は出来ん。その上でこれから変わるのか、それとも変わらぬかはおまえ次第だ」
「……そんな事言われても、わかんない」
いつも冷静に確実に紅世の徒を討ち滅ぼす為に戦ってきた、それなのに今回は、あの変なミステスの所為で振り回されっ放し。
――でも、それは。
「――どうやら来たようだな」
思いが言葉という形になる前に、シャナの思考はアラストールの言葉によって霧散した。
「…………」
アラストールの言葉を聴いたシャナはいつの間にか俯いていた顔を上げて、玄関から出てきた二人へと視線を向ける。
徒の少女、ティリエルに腕を引かれ、つんのめりそうになりながらも歩くミステスの少年、悠二。
どこか不機嫌そうに足早に歩くティリエルに、悠二はしょうがないなぁと苦笑いを浮かべ。それはシャナの目にも決して嫌そうでなくて……。
あれは、悠二は昨日自分に向かって、……ううん違う、悠二に出会ってから何度もまっすぐな、諦念ではなく希望の言葉を投げかけてきた。
それは今までこの世の本当のことを知ったトーチの中で唯一の例外。
そしてそんな悠二を受け入れ、尊重する徒。
シャナにとって二人はすぐ目の前にいるのに、手を伸ばしても届かない、それはとても遠く思えた。なぜ、そんな事を思うか気づく事もないまま。
「……やはり、幻では無かったな」
「え?」
「消え掛けだった存在の力だ」
「ああ、うん、そうよね」
「…………」
シャナは雑念を払うように頭を振り、改めて先を行く悠二を見る。
それは確かに煌々とした存在の炎を宿していた、昨日のか細い炎の面影すら残さず。
「やっぱり、回復している」
「うむ、そうだな」
昨夜の事は見間違えでは無かった。
燃え付きかけた存在の力が戻っている。それはありえないこと。
でも、決してという訳ではない。
シャナは知っている、新しく日が始まると共に存在の力が回復する宝具を。
――零時迷子。
手を取り合って普通の人間が通う学び舎へと向かう、紅世の徒とミステス。
それはまるで“約束の二人”の様に。
シャナは目の前を行く二人の背を見つめ、無意識に唇を噛んでいた。
悠二とティリエルから少し遅れて登校してきたシャナ。
教室にやってきたシャナに悠二は挨拶をして、シャナも鷹揚にだが挨拶を返す、無論ティリエルは完全に無視だったが。
そして今日も始まる、シャナによる授業担当教師の斬り捨てが。
手加減というものをまるで知らないシャナの独演。悠二は頭を抱え、ティリエルはシャナに対して一切の興味を示さず、そしてクラスの空気は戦々恐々。
下手を起こすと、即、自分の命に関わる様な、緊張を孕んだ空気が一転したのは四限目の体育の時間であった。
それは平井ゆかりの因果を纏ったシャナの所業を耳にした体育教師の子供染みた仕返し。その教師は平井ゆかりという少女について体力的に優秀では無いと記憶していた、だからこそ臆面もなくそこを付いた。
この体育の時間全てを使ってグラウンドを周回させるという無制限のランニング。
無論体育のカリキュラムの無視どころか、体力差のある男女を纏めてという明らかな嫌がらせともいえる授業の内容に、誰もが不平不満を漏らした。
だが、この陰険、横柄、いやらしいと口々に噂されている教師は生徒たちのそんな様子を考慮する訳も無く。
「お前らっ! 何、ぼさっと突っ立ってるんだ! さっさと走り出せ!」
自分の言葉に素直に従おうとしない生徒たちに苛立ち、肩に担いでいた竹刀で地面を打ちつけて脅し、生徒たちは不承不承と行った様子でトラックに沿って走り始めざるを得なかった。
ぽつりぽつりと走り出した生徒の中で、ため息を一つ吐いて悠二もゆっくりと駆け出し、ティリエルは当然の様に悠二の隣を寄り添う様に流れに乗った。ただ、シャナだけは他の生徒の様にだらだらとではなく、風を切るように走り出した。
シャナは団子状の集団のを先導するように一人飛び出してトラックを駆ける。
無論、フレイムヘイズ足るシャナにとっては高等学校の持久走ごときで根を上げるなんて不可能な訳で、シャナより先にクラスで一番体力の無い女子生徒の一人が倒れたのは自明の理であった。
「一美!」
クラスメイトの悲鳴じみた金切り声がグラウンドに響いた。
「!」
悠二は足を止めて咄嗟に振り返った。
自分の走ってきた後方のトラック上で、両手を地面に付き肩で荒く息を吐いている髪の短い女の子、確か名前は吉田一美。
一瞬の後には、他のクラスメイトたちが心配そうに集まって悠二の視界を閉ざしたが、 取り囲む直前に見えた彼女は、髪を汗で張り付かせながらその表情は血の気が引き、今にも支えている両腕が崩れ落ちそうであった。
悠二は倒れた彼女を心配しながらも、この元凶である体育教師と未だ駆け続けるシャナへと視線を向けた。
体操着に着られているような小柄な少女が、何時までたってもペースを落とす事も、弱音を吐く事もなく淡々と走る姿に明らかに焦れていた、その上にこれだ。
件の体育教師は自分の思い通りに事が運ばなかったのが相当頭に来たのか、苛立ちを隠そうともせずに竹刀で地面を叩き、人垣が出来ている中心、倒れているクラスメイトの下へと歩き出した。
「何をさぼっているか!」
生徒たちの人垣を掻き分け現れた体育教師は、倒れている女生徒を心配する素振りすらも見せずに開口一番、怒声を吐いた。
それの怒声はいたいけな少女である彼女に恐怖を与えるのは十分で、その上騒動の中心と成ってしまった彼女を自責に陥らせた。
周りに集まってきた生徒は、教師として最善の行動をする訳でもなく当り散らす教師を軽蔑の目で見て、口々に体育教師への愚痴を漏らす。
無論そんな事をして黙っている体育教師ではなく、自分に対しての非難という事だけを感じ取り、当然の様に矛先を集まっている生徒たちへと向けた。
「貴様等、何勝手に集まってきている!」
体育教師は怒鳴りながら、集まっていた生徒を下がらせる為に持っていた竹刀を振り回す。生徒達は竹刀から逃げるように一歩引いたが、ただ一人だけ一歩も引かずに佇む女生徒がいた。
「ああ? 何だ貴様!」
「一美は普段から貧血を起こしているんです……。だから! 先生、一美を休ませてください!」
親しい友人である一人の女子生徒が勇気を振り絞って体育教師の前に立って言った、精一の言葉。
けれども、帰ってきたのは自分を馬鹿にされたと感じた更なる怒気の孕んだ視線。
「黙れ! そんな事言ってさぼっとるから、何時までたっても体力がつかんだろーが! さっさと立て! 吉田!」
目下である生徒に正論を言われ、教師というちっぽけなプライドを傷つけられた。その上感情論だけで動いた体育教師は理論的に説明する事もできない、出来る事なんて更に逆上し、反論することも出来ない弱者に当たる事だけ。
「貴様がさぼっとるから、皆足を止めてるだろうが! 立て!」
いくら怒鳴っても立ち上がろうとしないこの女子生徒に腹を立たせ、体育教師は腕を掴んで無理矢理引き起こす。
「――っ」
恫喝染みた一喝と、地面を打ち付ける竹刀の音、そして無理矢理掴まれた腕の痛みで声無き悲鳴が上がった。
悠二はこれ以上見ていられなかった。
悠二にとって、この体育教師がするシャナへの子供染みた仕返しは別にどうでも良かった。そんな事でへこたれる彼女ではないことが分かりきっているから。
むしろ、シャナが纏った平井ゆかりという因果に対しての行いの方が腹に据えかねた。無論、目の前で行われている教師の権威を盾にしての不条理な行いも。
――くすくす。
耳元に聞こえる笑い声。
――くすくすくす。
地の底から響いてくるようで、すぐ近くから聞こえてくるような気がする声。
風に流れて鼻に香る甘い匂いと、視界に映る波打つ金糸。
「ねぇ、お兄様。別にやってしまっても構いませんわよね」
隣に並んだティリエルが視線を前へと向けたままそう呟いた。
「構わないって、何が?」
「お兄様、分かりきっている事を尋ねるのはマナー違反ですわよ」
「まぁ、そうだよね……」
くすくすと一定の調子で上げていたティリエルの笑い声が不意に止まる。
体育教師が腕を掴んだまま覗き込むように、嘗め回すように視線を向けていた。彼女の体操着の下に隠れる年不相応に膨らむ胸へ、すらりと伸びた白い腿へと。
体育教師の愚行を目の当たりにしたティリエルは、やや俯きながら自分で自分を抱く。
人形と見違うほどの均整の取れた体躯、絹の様な艶をもった波打つ金糸、標的にされない訳は無く。ただ、何時もは悠二に無視するように諭されるけど、今この時は報復する絶好の機会。
「なんて下種で汚らわしい。……私の全てはお兄様のものだというのに、本当に汚らわしい」
クラスメイトが倒れたから、なんて殊勝な気持ちがティリエルにある訳も無く、ただいい機会だから。溜まった鬱憤をここぞとばかりに吐き出すべく、体育教師へと向けて歩き出すティリエル。
悠二はティリエルの背を見ながらも、止める気なんてさらさら無かった。因果応報とばかりに報いを受ければいいと。
ティリエルの細く白い腕が、今尚女子生徒の腕を掴んだままの体育教師へと伸びる。
「ん? 何だお前――」
ティリエルの存在に気が付いた体育教師が誰何を問おうとした瞬間、ティリエルの視界から消て、伸ばした手は空を切った。
「あっ」
それは誰の呟きだったのか。
「……なんですの?」
ティリエルは首だけを動かし、消えた体育教師――否、蹴り飛ばされた体育教師へと視線を向ける。
顔からトラックに着地して、尻を突き出した無様な姿勢の体育教師。
視線を元に戻すと、そこには蹴り上げた姿勢のまま、開いていた片手で体育教師に掴まれていた少女をしっかりと抱きとめるシャナがいた。
誰もがこの展開についていけず、ただただ呆然とするしかなかった。
傍目から見れば、颯爽と現れピンチのヒロインを救う、それは正しくヒーローの行動。
ここにいる全員の視線が事の発端である、体操着に着られているような小さな少女へと視線が集中して、静かに行く末を見るべく注視した。
「ん」
シャナのすぐ近くで、躊躇いがちにシャナの腕の中にいる吉田一美を窺っていた生徒に彼女を手渡す。
「あ、ありがとう。一美! 大丈夫!?」
シャナはお礼の言葉も意に返さず、もう興味はないと女子生徒から視線を外し、ただ見るべきは起き上がろうとする体育教師のみ。
肩で風を切りシャナは往く。
吉田を受け取った女子生徒がシャナの背に向けるのは羨望の眼差し。
今、この時、無法者と思われていたシャナへの心象が反転した瞬間だった。
クラスメイトの期待の視線を一斉に浴びながらシャナは口を開いた。
「さっきからずっと走るだけ、これいったい何の『授業』な訳?」
凍てつく視線で眼前の体育教師を見つめ、シャナはそう吐き捨てた。そして体育教師の返答より速く、更に言葉を続ける。
「馬鹿な訓練。ただむやみに体を動かすだけなんて、疲れるだけで何の意味もない」
「き、貴様!」
土まみれで汚れた顔を拭って、体育教師は自らの怒りを表すかのように勢いよく立ち上がり、顔を真っ赤にしてシャナを睨みつける。
無論そんなものはシャナにとって意に返さない訳であるが。
「おまえ、この授業の意味を説明しなさい」
仁王立ちするシャナの背中にドーン! と悠二には効果音が聞こえた、ような気がした。
悠二は目の前のやり取りを見てああ決まったなと、いつの間にかやってきていたティリエルを隣に感じながら一人思う。
「貴様! 教師を足蹴にしたな! この不良が! 教師に暴力をふるいおって! 停学、いや退学にしてやるぞ!」
一方的にまくし立てる体育教師を鼻で笑って切り捨てるシャナ。
「説明さえ出来ないの?」
「分かってるな! 問題だ、これは問題行為なんだぞ!」
「お前、なんなの?」
シャナは軽くため息を吐くと、目の前の体育教師を完全に冷めた目で見下す。
感情に任せて喚き散らす体育教師、ただ声が大きいだけでシャナの問いに関する答えも論理的な反証も一切無い。
最低の無能、それがシャナの出したこの体育教師に向ける結論。
これ以上の問答は無意味と結論付けたシャナはゆっくりと腕を振りかぶる。言葉で言って分からないのなら暴力で分からせるまで、と。
教師に暴力を振るう訳は無いという思いと、殴られるという思いが教師の中で鬩ぎ合う。
だが、残念ながら目の前の小柄な女生徒の雰囲気ががらりと変わったのは、流石の体育教師にも把握できた、無論今更ではあるが。
無論シャナには振り上げた拳を無為に引く謂れは無い。
「ひっ――」
体育教師の声無き悲鳴。
このまま誰も止めなければ、体育教師にシャナの拳が突き刺さるのは必然。
悠二は恐怖で怯える体育教師を鼻で笑いながらも、シャナの拳が体育教師に届くより速く静かに口を開いた。
「――ティリエル」
「はい、お兄様」
ティリエルが悠二に名を呼ばれ、柔らかく微笑んだ瞬間、この空間が山吹色に染まった。
封絶、この空間の中で動けるのはミステスの悠二、紅世の徒のティリエル、そしてフレイムヘイズのシャナ。それ以外の存在は全て停止する、無論シャナの目の前の体育教師も。
シャナの振り上げた拳は、当たり前のように停止している体育教師に突き刺さり、当たり前のようにトラックから吐き出されて悠二とティリエルの目の前に転がった。
「……なんのつもり?」
胡乱げなシャナに悠二は苦笑いを浮かべ、ティリエルは我関せずと口元を隠しながらくすくすと笑いながら転がる体育教師に近づいていく。
存在の力を吸っちゃ駄目だよという悠二の言葉に、ティリエルは口を尖らせながらこんな汚らしい存在の力は要りませんわと返す。
ティリエルは嗜虐的な笑みを浮かべながら、動く事の無い体育教師の脇腹を蹴ったり、間抜けを晒すその顔を踏んだりと弄り始める。
悠二はそんなティリエルの様子に小声でほどほどにねと呟いて、改めてシャナへと向き直った。
「シャナ」
「何よっ」
口を尖らせるシャナに、悠二は苦笑いを浮かべながらも言葉を続ける。
「殴るのは良くないって」
「口で言って分からないなら殴って理解させるまでよ。それ以外にどうすればよかったっていうのよ!」
まるで警戒する小動物の様で、悠二は思わず笑みが漏れたがシャナに睨まれて流石に自重した。
「どうすればって、さっきみたいに蹴ればよかったんだよ」
「は?」
あっさりと返された悠二の言葉にシャナは目を丸くした。
悠二は小さくクスリと笑って話を続ける。
「確かに一応とはいえ教師に暴力を向けるのは拙い、理由がどうあれね?」
「なら――」
「――でもね、トラック上で蹴られるのは別だよ? トラック上で蹴られたのは、アレがトラック上に飛び込んできたから。シャナは足が速いんだから偶々、そう偶々足がアレにぶつかったんだ。それは交通事故で、別にシャナは悪くないんだよ? だってそれはただの不幸な事故なんだからさ」
道化染みた悠二の説明を聞いたシャナはなるほどと頷いた。
「じゃ、リテイクって事で」
悠二はそう言うと、ティリエルに踏まれていた体育教師の襟首を掴んで、トラック上に引きずって行き、無理矢理シャナの前に立たせる。
封絶の中でシャナに殴られた痛みも、ティリエルに踏まれたり蹴られたりした事も、封絶の中で動けず、この世の本当の事を知らないこの体育教師は修正される因果の本流にただ流されるだけ、そんな事が在ったとも知らずに。
そして因果は動き出す。
「ふんっ」
風を切るように綺麗に振り抜かれた足。
無様な悲鳴を上げて吹き飛ばされる体育教師、蹴り飛ばした先は無論トラック上。
動き出した流れの中で、シャナの行動に目を丸くする他のクラスメイト。そこに悠二はすかさずフォローを入れる。
「先生! いきなりトラックの中に入ってきたら危ないですよ!」
悠二の言葉を受けて、様子を窺っていた周りのクラスメイトにも一瞬で理解の色が浮か。そして今までの鬱憤を晴らすべく口を開いた、やけにイイ笑顔を浮かべながら。
「そりゃ蹴っ飛ばされてもしかたないですねぇ!」
「そうそう、平井さんは足が早いんだから」
「僕見てましたよ。先生が平井さんの前に飛び出すところ!」
「私も!」
「センセ、かわいそー」
「今のはただの事故だよね~」
最初は数人だったのが次第に声が上がっていき、まるで歓声の如くシャナと件の体育教師を包む。
「……き、貴様、ら」
顔を真っ赤にさせて歯軋りしながらも、体育教師には成す術が無かった。
この光景は体育教師にとって正しく四面楚歌。けれどもこの状況を招いたのは、それこそ自分の因果が返ってきただけ、自業自得の因果応報である。
「……けりを付けよっか、シャナ」
「? うん、そうね」
何時の間にかシャナの傍らにやってきた悠二がシャナへと囁く。
シャナは一瞬悠二の言葉にきょとんとしたものの、すぐさま悠二の言葉の真意を汲み取ってイイ笑顔を浮かべた。向かう先は未だにうずくまっている体育教師。
シャナが一歩足を進めるだけで辺りは静寂に包まれ、固唾を呑んで見守る。
「お前、そこから、動くな」
シャナの言葉を聞いて、体育教師はようやく今自分が何処にいるのか気が付いた。
慌てて立ち上がってトラックの上から逃げ出そうとするものの、一発目のシャナのパンチが足にきたのか、それともティリエルに弄られたからなのか、体育教師は足を縺れさせ転んでしまう。ただ、残念ながら転んだ先もトラックの上。
体育教師は背後に気配を感じて慌てて振り返ると、そこには触れられるほどの距離でシャナが立っていた。
「やめ――」
体育教師の悲鳴染みた制止の声もなんのその。ゆっくりと上げられたシャナの足が体育教師の鼻先を掠め、鈍い音を立てて砂が舞い上がった。
それは腹にまで響く重い音。
文字通りの眼前、そこには五cm近く沈むシャナの足。
「あ……あっ……」
体育教師はもしこれが自分の顔に直撃していたらと、驚愕と恐怖が合い混ぜになった顔が引きつり蒼白に染まる。
幼子のように体を丸めながら恐怖で震える体育教師。
悠二はそんな無様を晒す体育教師に向けて近づくと、腰を屈めてそっと口を開いた。
「……これからも色々と、そう、色んな事に気をつけないと、危ないですよ、先生?」
「なっ、何を――」
空を切り、体育教師の頬を浅く切り裂いて消えていく小石。
「ええ、お兄様の言うとおり。分を弁えなさい、この下種が」
ティリエルは爪先でとんとんと地面を小突くと、立ち上がった悠二に寄り添う。そして再び小さな石が体育教師に向けて飛来する。
「――ひっ」
西洋人形然とした容姿とは裏腹に、その実決して怒らせてはいけない人であるティリエル。それはこのクラスにおける不文律であるが、この時に至ってようやく、体育教師は今まで誰を標的にしていやらしい目つきで見ていたのか、本当に、今更ながらに理解した。
「あ、ああ、あ……」
「……お分かりかしら?」
首が取れるんじゃないかというほど勢い良く何度も頷く体育教師。
「先生、もう、解散してもいいですよね?」
とびきりのにこやかな笑顔で肯定しか許さない悠二の言葉。ただティリエルを除いた誰の目にも真っ黒に見えたのは言うまでも無い。
シャナと悠二とティリエルが連係して見せた光景。それは他のクラスメイトにとって見慣れた因果。なぜなら入学式から坂井悠二、愛染ティリエル、――そして平井ゆかりはずっと一緒だったのだから。
「の、残り時間は、自習だ……」
そんな捨て台詞を残して茫然自失したまま、ほうほうの態で逃げて行く体育教師。そして体育教師の姿が完全に消えた瞬間、歓声が沸き上がりクラスメイトが一斉にシャナを取り囲んだ。
いきなり向けられる波のような好意にシャナは困惑するが、ふと気が付いたように少し離れた場所で横になっている少女、吉田一美の元へと近づいて行く。
「……おまえ、大丈夫?」
「う、うん、ありがとうゆかりちゃん」
まだ体調が完全に戻った訳ではないけど、それでも出来る限りの笑みを浮かべてシャナの言葉に答える吉田。
「ゆかりちゃん?」
「……別に、何でもない」
あけすけな感情の込められたお礼の言葉に、シャナはどう反応していいか分からず、口を尖らせてそっぽを向くしかなかった。
でも、そんな姿がつぼだったのか、吉田は軽く噴出したのも束の間、こらえ切れなくて口に手を添えながら、声を上げて笑った。
「むっ、笑うな!」
「あはは、うん、ごめん、でもね……」
シャナの行動はどう見ても、ただ素直になれなくて、つんとしているだけにしか受け取られなかった。小柄な容姿も相まって、シャナがいくら凄んでみても逆効果。
流石にシャナの雷が落ちようとした時、吉田がふらりと崩れそうになって、シャナが慌てて支えた。
シャナと楽しそうに言葉を交わしていたものの、よく見れば顔色はまだ良く無いのが手に取るように分かった。
「……お前、無理しすぎ」
「……うん、ごめんね」
吉田はえへへと力無く笑うと、寄り添っていたクラスメイトの少女と保健室に行く為に立ち上がる。
「保健室いってくるね」
「そう」
素っ気なさそうに応えるシャナだったが、その実ほんの少しだけ心配そうな色を浮かべていた。
「また後でね、ゆかりちゃん」
「別に……」
吉田はそんなシャナに苦笑いを浮かべたけど、自分の事を心配してくれているのも分かって軽く手を振って保健室へと歩き出した。
そんな吉田をなんとなく見送るシャナだったが、ふと生暖かい視線を感じて振り返った。
視線の先にいたのはこちらを気にしたぞぶりも見せないティリエルと、微笑ましそうに見ている悠二。
シャナは馬鹿にされた感じがして頬を膨らませたが、悠二はそんなシャナを見て、頬を掻きながら苦笑いをしつつ、何かを呟いた。
「?」
決して声は聞こえなかったけど、シャナには口の動きで何を言ったかはっきりと理解できた。
『お疲れ様』
その事を認識した時、シャナの心のうちで何かが動いたような気がして、自分でも気がつかないうちに微笑を浮かべていた。
「む……」
ふと強い視線を感じでそちらへと視線を移すと、さっきまで自分に関心を見せていなかったティリエルが冷ややかな視線で自分を見ていた。むっとして睨み返したが、一瞬後には何処か安心したような表情をしている悠二の腕を無理やり取って、何処かへ行ってしまった。
シャナは二人を捕まえて、何故あんな行動を取ったのか問い詰めようとしたけど、クラスの女子たちにわらわらと集られてそれを諦めた。自分らしくない消極的な行動をしたという事にも気づかずに。
「そういえばさ、平井さんは坂井君と付き合ってるんだよね」
「付き合うって……何?」
色恋に無頓着、というかある意味無垢なシャナにはクラスメイトの言葉の意味が分からなかった。
「何って、付き合ってるんだよね? ほら、坂井君にお弁当作って持ってきたし」
「ね~」
「でも坂井君、ちょっとおっとりしてるから平井さんから告白したんでしょ?」
「こう、勢い任せてドーン! って感じで」
あははと笑うクラスメイト達。
シャナは結局言葉の意味を理解しないまま、場の勢いで曖昧に返事をしたりして聞き手に回った。
目の前で楽しそうに展開される話は、どれだけ平井ゆかりが坂井悠二と共にいたかという話。
でも、それはシャナに向けての話なのに、目の前で交わされる話のどれもが平井ゆかりという少女の因果。シャナがその因果を纏った時から、溶け合い塗り替えられて、そして因果を放り出した瞬間、全てが泡沫と消えるしかない想い。
仮初でしかないシャナには話をどれも拒絶するか、適当に聞き流せばいい、それなのにどうしてか出来なかった。
「…………」
自分は変わってしまったのだろうか、そう心の中で呟いた時、不意にシャナへと話が振られた。
「……そういえば平井さん、ちょっと気になってた事があるんだけど、聞いていい?」
「別に、いいわ」
神妙に聞いてくる様子にシャナは怪訝そうにしながらも了承を出す、どうせ答えは適当になるのだから。
そんなシャナに安心したようで、ほっと息を吐いてから口を開いた。
「じゃあ聞くんだけど。平井さん、前は愛染さんといっつも一緒にいたのに、今は喧嘩でもしてるの?」
「え?」
一瞬、シャナは何を言われたのか分からなかった。
「入学式の時からさ、ずっと猫可愛がり……? あれ、ちょっと違うかな?」
「じゃれ合いだよ。まるでお人形さん同士がじゃれ合う様子は絵になってたよね~」
「ああ、そうだったね」
「そう、あんなにじゃれ合ってたのに、最近は冷戦でしょ? 聞きたくもなるよ」
はう~と感嘆の息を漏らす生徒につられて、別の生徒は疑問に思った事すら次の瞬間には忘れていく。矛盾する因果が修正されてまた一つ、『平井ゆかり』が消えた。
「……別に、喧嘩している訳じゃない。元から仲良くなんか無かった」
シャナの前髪が揺れて、表情が陰る。
口を突いて出たのはそんな言葉。
でも、聞いていたクラスメイト達は、シャナの言葉を当たり前の様に嘘と断言した。
「またまた~、素直じゃないよ平井さん。これはきっと、ツンデレってやつだね!」
「そこまで言う程の喧嘩かぁ、原因は……」
「その原因はズバリ、坂井君でしょ!」
「女の友情は、男が出来た途端崩れ去るものなのよ……」
戸惑うシャナを置き去りにして、クラスメイトの少女たちはかしましく話を膨らませていく。
――喰われる前の平井ゆかりとは相当仲が悪かったみたいね。
そう呟いた自分に、悠二は返答をせずにただため息をついただけだった。
今、よく思い出してみれば、あの時の悠二の表情にはどこか悲しみがあった、ような気がする。
今ならフレイムヘイズという存在を毛嫌いしているから、と答えるのが一番簡単だけど、それは多分違う。
あの愛染ティリエルと名乗っていた妹は徒で、平井ゆかりを大切な存在としていたみたい。シャナはトーチと紅世の徒、二人の関係について考えようとしたけど、思考を止めていた。
「どうかした、平井さん?」
「――なんでもない」
フレイムヘイズの使命に則り、当たり前のように他人の因果を被って来た、そう当たり前のように。
――もし、ヴィルヘルミナがまったく知らない者になっていたらどうする?
それは昨日アラストールに言われた言葉。
それは考えてはいけない事、……いや、少しは思っても気にすることなんて無かった。
自分は無慈悲に切り捨ててきた、ずっとずっと繰り返してきた、それこそ今更。
紅世の徒を討滅する事が、自分の使命。
――でも、そんな想いを自分は与えた。
「平井さん?」
「……なんでもない」
周りで騒がれながらもこの時間中、シャナの視線は無意識にこのグラウンドのどこかにいるだろうあの二人を探していた。
テーマ:二次創作 - ジャンル:小説・文学
- 2010/07/14(水) 10:33:06|
- わたしの愛しいお兄様(灼眼のシャナ)
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